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知れば知るほど面白い「高知城」~番外編~

2020.03.10

高知番外編ですが今は建物がない部分の深堀りや、高知城だけではなく古くから現在まで継承されている文化についても掲載していきます!

山内一豊の妻 千代

山内一豊の賢妻として有名な「千代」は、1556年初代郡上八幡城主遠藤盛数の娘として生まれました。千代が3歳のころ、盛数は病死、母の再婚、義父の敗北、流浪。波乱の時がはじまります。やがて千代は、縁あって尾張の一豊に嫁ぎました。一豊は信長、秀吉、家康に仕え、最後には土佐24万石の大名に出世しました。その影には、千代の内助の功があったといわれています。信長の「馬ぞろえ」や関ヶ原前夜の「傘の緒の密書」の逸話は有名ですね。

三ノ丸について+α

三ノ丸は、高知城築城開始から10年後の1611年に完成しました。御殿は、式台廻り、藩主の私的な部屋である新お座敷、年頭行事など公的な儀式が行われる大書院、内向きの対面及び接客場所である裏書院、御居間、台所などから構成されていた。正月年賀の際は、紙子を着用した諸士は登城し、ここで祝式を行ったといわれています。

1727年の大火により御殿が焼失。1753年に再建工事が開始され、同年の11月26日に再建された。1869年、高知藩の知事府となり1870年に城外の致道館に移るまで政庁として使われた。その後。1873年の高知城の公園化にともない建物が取り壊されている。

二ノ丸について+α

二ノ丸には、藩の役所である表御殿、藩主の居室である御居間、個室、御殿女中の生活の場である奥御殿・長局などの建物が配置されていました。創建当時の御殿内部は、障壁画が描かれるなど豪華な造りであったようであるが1727年の大火で焼失した。その後、1743年に再建工事が開始され1745年に再建を果たした。

明治維新の後、1871年に版籍奉還に伴い、十六代藩主である山内豊範は高知城を出て散田邸に居をを移した。その後、1873年の高知公園開園にともなって全ての建物が取り壊された。

浦のくらし

土佐は古くから、漁業が盛んな国として知られており、水産資源に富んでいた。なかでも、鰹漁と捕鯨は土佐を代表する漁業であった。

土佐は東西に延びる長い海岸線を持ち、九十九洋の異名を持つ。浦は海岸に散在する諸集落で、住民の多くは漁業や航海業(水主・船乗り)に従事した。また、山から、伐りだされた材木の集積地として商人や職人も多く住み、在郷町的な性格を持った浦も多い。主要な浦には分一役と呼ばれる徴税官が駐在し、漁業にかけられる運上の口銀や船の積荷にかけられる分一銀を徴収した。

土佐藩では領外への移動や荷物の輸送の手段として、そのほとんどを海上交通に頼らねばならなかった。その為に浦は藩の廻船などの船乗りを務める水主役と呼ばれる夫役が課されていた。つまり、浦は単に漁村としてだけでなく、藩の政治経済における航路の中継地、水主供給地としてもきわめて需要な意味をもっていました。

鰹漁

鰹漁は、紀州漁民の進出により17世紀半ばに本格化しました。取れた鰹の大半は浦において鰹節に加工され、土佐の特産物として全国に知られました。鰹節は贈答品としても珍重され、その需要が漁業を支えた。

捕鯨

捕鯨も鰹漁と同じ時期に本格的に展開されるようになった。浦の漁民を組織した大規模な集団は「組」と呼ばれ、津呂組・浮津組の二つの鯨祖があり室戸を拠点に漁を行っていました。その経営は多くの費用を必要としたため、藩や大坂の商人からの融資によって運営された。

まとめ

今は亡き二ノ丸・三ノ丸について+αと藩を支えた漁業等についてまとめました。正直まだまだ高知城について面白い事がたくさんありますので次回は高知のおすすめスポットにも触れていきたいと思ってます。ぜひ高知に行った時にはお城へ行ってみて下さい。

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